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国葬という民主主義の敵

 安倍元首相が射殺された事件について、まずは「民主主義への挑戦だ」と事件直後にメディアは一斉に報じた。しかし、犯人が逮捕され、その動機が明らかになるにつれて、「民主主義への挑戦」という表現に違和感を感じる声が出てきたようだ。僕自身もそう思う。そうしたら朝日新聞が7月18日付の一面と三面に「元首相銃撃 いま問われるもの」という記事を載せた。記事は東京大学の宇野重規教授の見解を中心にまとめている。宇野氏は、個人的な逆恨みは政治的な問題ではなく民主主義とは関係がないとする考えは表層的だと異論を唱えている。

 宇野氏によれば旧統一教会への恨みは「投票を通じて意思を表明したり、不当にお金をとられたなら世論や裁判所に訴えたり、といった皇道を取ることができたはず」だから選挙や訴訟で解決する方法を採るべきであって、そうしなかったことが民主主義への挑戦なのだという。

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 安倍氏が政治家だから、選挙を通して安倍氏を批判せよということなのだろうか。しかし、容疑者山上に対して「おまえの家の破綻のおとしまえは選挙でつけろ」といっても通用するはずがない。いままさに彼に類した家庭の破綻に直面している人に同じ言葉をかけてもいい。言われた側からすれば、それこそ飛躍があるというものである。また、安倍氏が政治家であったから、もしくは選挙中のことだったから、この銃撃は民主主義の敵だというふうにもとれる。なぜならば野党の党首等も口を揃えて「民主主義の敵」と唱えた。あたかも火の粉が自分に向かってくるのを怖れるかのようにそう唱えた。そして、一切の安倍批判を口にしなくなった。言い換えるならば、そういう状況こそが民主主義の敵だったのではないか。

 そして、驚くべき事態が導かれつつある。岸田首相は安倍氏を国葬にすると言い出したのだ。元首相銃撃が選挙中に行われたから、国葬話が浮上したのである。安倍氏がこのような死に方をせず、天寿を全うするならば国葬ということはまずありえないだろう。歴代首相はそれぞれ功績を果たしてきたと自民党支持者は言うだろう。個人的には歴代首相の事蹟を功績と評価してはこなかったが、政治史的には何らかの評価をすることができる。その存在が歴史的な存在になれば、歴史的な評価は生まれてくるものである。

 しかし、安倍氏に関して言えば、森友学園、加計学園、桜を観る会など解決させぬままの不祥事があり、実直な公務員が自死するという事態も生じている。在任期間が最長記録を更新したからというのを理由にするのならば、これから最長記録を更新すれば国葬にするという慣例でも作るつもりなのだろうか。それは政治的貢献の本質とは全く異なる論理で世界の笑いものになるしかない。

 で、彼の政治家としての功績なのだが、なにしろついこの間まで首相であり、その影響は今も強く存在しているし、批判もされている、言わば現在進行形の政治家の仕事を賛美すること自体が民主主義とはほど遠い考えである。彼の大叔父である佐藤栄作1964年から沖縄返還を含む1972年まで歴代3位の長期政権を維持した一方で、「栄ちゃんのバラード」といった歌になるほど国民の批判も多かった。政治的な反対派の社会的存在は安倍氏の比ではなかったと思う。にもかかわらず、ノーベル平和賞を政治的に勝ち取ってきた。その佐藤栄作の政治家としての評価は政治史的にはこれからなされていくところだと思う。少なくとも安倍氏はまだ政治史的に評価される存在ではない。たとえまた評価の定まらない事蹟を贔屓目に見たとしても安倍晋三が佐藤栄作を超えていないことは明白である。

 しかし、選挙中に銃で殺されたというセンセーショナルな死に様が国葬に導いた。歴史的に評価の定まらない人物を国葬にするということは民主主義国家としてはありえないことだ。それは森友学園も、加計学園も、桜を観る会もすべて大きな功績の一つとして美化していくことである。それはこの事件を「民主主義への挑戦」と位置づけることから始まる翼賛政治の展開であり、そう位置づけることは「私怨」という国民一人一人の怒りを政治的に踏み潰していくことを正当化するという意味で極めて政治的であると言えよう。

 
 
 

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