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消化試合

更新日:2024年9月29日

 先日の西日本新聞(2024年9月15日付)に興味深い記事が載っていた。四宮淳平記者の署名入り記事である。「特色化選抜①」というタイトルであった。特色化選抜は昨今、福岡県でおこなわれている入試方法である。いわゆる自己推薦型の選抜になり、試験はやらないし、中学校の「推薦」もいらない。そして、この特色化選抜による募集人員の数は急増している。

 福岡県の県立高等学校の入学者選抜方針の基本方針には「高等学校入学者の選抜に当たっては、中学校教育と高等学校教育の相互の関係を十分尊重し、特に、中学校教育が正常に運営されるよう配慮するものとする」とある。中学校教育の正常な運営とはどういうことか。まあ、基本理念は中学校教育を高校入試が歪めてはならないという、至極まっとうなことが謳われているのである。

 で、この記事によると、特色化選抜が実施された1月下旬以降卒業までは「授業の消化試合だった」という感想を教師は持ったということである。消化試合とはプロ野球のペナントレースでリーグ優勝が決まってしまうと、残り試合は勝っても負けても意味の無いただスケジュールを消化するだけの試合になってしまうというので、そう呼ばれる。実際、優勝が決まってしまえば、ファンは勝ち負けの興味を失ってしまい、高い金を払って野球を見に行く気にはならないだろう。現在おこなわれているクライマックスシリーズなどというのはそうした消化試合を少しでも少なくするための工夫である。

 野球というのは、投手がボールを投げて、バッターがそれを打つ。打った打者は一塁へ向かって走り、野手は打球を追って打者走者を進塁させないという攻防自体がおもしろいスポーツだ。ゲームとしてはその試合で完結するものである。

 しかし、ペナントレースは試合そのものではなくて、1シーズンの順位、殊にどのチームが1位になるかに目的が移っている。そのことが観客を興奮させ、結果としてチームなりリーグに利益が転がり込むというしくみになっている。ファンは試合を見なくても新聞で結果を見るだけで一喜一憂できる。だから優勝争いをしているときの試合は必死に応援したとしても、優勝が決まってしまってからの試合の内容に対する興味は失われている。そこでおこなわれていることはもはや優勝争いとは関係ないし、選手も目標がないから戦意を失っている。消化試合だ。投手がボールを投げて打者が打つといったやりとりに意味が見出せないので、その行為は誰にとっても楽しくない。

 ところで、授業というのは小学校の一年生からずっとやっているものだ。野球なら草野球のようなものだ。草野球は野球そのものを楽しむ。野球好きが集まって、楽しみで野球をするのであって、その試合は相手チームに勝とうと努力するが、消化試合のようなものはない。授業もそのように毎回の授業で教師と児童・生徒のあいだでやりとりされる学びの場だ。小学校に入ったときからずっとそうやって子どもたちは学び、教師は教えている。目的はその日の授業で学ぶ内容そのものにある。それが消化試合になってしまうというのは授業の本旨から外れ、目的が変質したことを意味する。

 昨日たまたまテレビで「しくじり先生」という番組を見た。有名人が先生役になり自分の失敗談を生徒役のタレントに授業の形で披露するという趣向だ。ここに消化試合はない。常に授業は授業として視聴者を引きつけている。当然のことながら授業は授業として完結されている。その授業でどういう学びができたか。そのこと以外に授業の目的はない。

その授業が消化試合になったというのは、それまでの授業が観客と親会社をよろこばせるペナントレースになっていたということであり、選手である教師と子どもたちは学びを楽しめていなかったということである。ていうか、授業は授業として成り立っていなかったのであり、それを嘆く教師は子どもたちの学びの同志ではなかった。野球でいえば、チームメイトでも試合相手でもなかったのである。

 そういうアナロジーはともかく、一般入試が減ったせいで授業が消化試合と化したというのはその中学校の授業なるものがもとい教育としての授業ではなかったということである。それは県の入学者選抜の基本方針が示す「中学校教育が正常に運営されるよう」な配慮がなされていなかったことであり、おのれのエゴのために任務を怠り、職務を放棄する不忠者が跋扈していたと、僕は言いたい。

「でも、・・・」とか「だって、・・・」という弁明や、「じゃあ、お前がここへ来てやって見ろ!」という逆ギレとはつき合いたくない。但し、この人たちに同情の余地はある。ミシェル・フーコーによれば、権力は遍在するものであるからである。

 フーコーは「権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ」と言う。権力は国家が上からかざしてくるものではなく、「行使される領域」、この場合、学校教育と考えていいだろう、その中の力関係だというのだ。そして、「一つの点から他の点への関係のあるところならどこにでも発生するから」権力は遍在する(いたるところにある)と言う。入試制度、教師と生徒、親と子、学歴と欲望、試験の点数による序列化、まっとうな授業と入試対策、・・・そういう力関係のなかで「受験」という権力が教師と親と子どもたちを支配し、中学校教育の運営を歪めてきたと考えれば、遍在する権力にもてあそばれた関係者を一方的に断罪するのはここでは控えたい。但し、今そのことに気づき、受験という権力を見直し、授業とは何か、中学校で学ぶべき知とはなにか、という教育の原点に立ち戻るべきではないか。

 もっとも、そういう授業を受けたことのない教師たちには授業を見直すということの意味自体想像を超えているのかもしれない。ただ、まっとうな授業に立ち戻るならば、消化試合はなくなるし、中学校三年三学期の終わるまで子どもたちはこの国の国民(市民)としての人格の完成と平和で民主的な国家及び社会の形成者たる成長を保証されるであろう(教育基本法)。



 

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